料理の結びを整える一椀の飯について
魯山人は『お米の話』の中で、
「飯は料理ではないという考えを改め、立派な料理だと考えなければならない。飯の炊けない料理人は一流の料理人ではない」
と述べています。
言葉としては峻烈ですが、その根底にあるのは、飯を単なる添え物ではなく、ひとつの完成された料理として見る姿勢であろうと思います。
たとえ料理長自らが炊飯に携わらないとしても、飯の炊き上がりに無関心であってよいはずはありません。
炊き込みご飯には炊き込みご飯の魅力がありますが多くの店が炊込みご飯に逃げているようにも思えてしまう。
日本料理の締めくくりとして供される白飯には、献立全体を静かに結ぶ役割があります。
それは単に空腹を満たすためのものではなく、その店の考え方や美意識までも映し出す一椀であるように思います。
米屋として、また長く食の現場を見てきた者として申し上げれば、料理の印象深い店であるほど、最後に供されるご飯の出来が強く記憶に残ります。
素晴らしい料理をいただいたあと、飯だけがあと一歩二歩と感じられることも、残念ながら一度や二度ではありません。
その一方で、飯にまで神経が行き届いた店には、やはり静かな説得力があります。
実際、炊き上がりに違和感がありその意図をお尋ねしたこともありますが、そうした問いに真摯に向き合われる料理人の方ほど、日々の積み重ねを大切にされている印象があります。
ネタは旨いのに握りとしてはシャリがネタを引き立てていないという悩みは自信で食べに行っても、職人さんも少なからず感じているのではないでしょうか。
いまは、炊飯機器どころか電子レンジても手軽にご飯を炊ける時代になりました。
しかし、飲食店において求められるものは、手軽さそのものではなく、対価に見合うだけの仕上がりと配慮ではないでしょうか。
これまで多くのすし職人のシャリ切りを拝見し、さまざまな料理店とお付き合いをさせていただく中で感じるのは、心に残る一品を供する方ほど、例外なく学び、工夫し、努力を重ねています。
私は業者は表に出る事では無く、料理店や生産者を支える裏方として仕事をし、それがプロの仕事として認められる事を良しとしています。
おむすび店を25年以上経験する事で厨房での日々の変化やオペレーションの難しさ等々を経験し、東京駅構内で9年弱おむすび店を営み自ら炊飯を続けた経験と数多くの炊飯テスト、様々な厨房環境を見、多くの田んぼに入り土・稲を見て精米し炊飯してきた経験を活かしお伝えする事で店で供されるおいしいご飯やシャリがお客様に喜ばれ、そんなお店に自分の育てた米が使われているという事が生産者の励みとなり、更に良い米を育てる力になる。
そしてまた、自身が心から伺いたいと思える店に、お米を納めさせていただけること。
それもまた、米に携わる者として、この上ない喜びのひとつです。


